大学受験部は、Wittyゼミと合併してリニューアルしました。
大学受験 Wittyゼミブログ
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目標達成をあきらめない!

科目選択受講可
〈月謝制〉
◎センター対策/二次対策
◎私大対策
◆高1~3年生受付可
◆過卒生クラス (午前)


京大(法)T.S君(開邦)
筑波大(人文)M.Oさん(開邦)
帯広畜産(獣医)S.Mさん(那国)
上智大(法)K.Iさん(開邦)
青学大(経)E.Y君(カトリック)
日大(獣医)Y.O(那覇西)
同志社大(文)Y.Oさん(開邦)
日大(芸)T.T君(那覇国)
防衛大(理工)Y.U君(興南)
琉球大 (複数学部)
2014~2019年合格実績

2019年
琉球大学 教育、人文、宇都宮大学 工学 、長崎国際大学 薬学、中央大学 文学、専修大学 文学
2018年
琉球大学 理学部・国際地域創造学部 岡山理科大学 応用数学 上智大学 法学部 愛知学院大学 薬学部 専修大学 経済学部 沖縄国際大学 経済学部
2017年 合格
琉球大学  西南女学院大学 保健福祉学部 帝京大学 薬学部 東京音楽大学 音楽学部 純真学園大学 看護学科 沖縄大学 人文学部 沖縄女子短期大学 児童教育学
2016年
京都大学 法学部・防衛大学校 理工学専攻 福岡教育大学 初等教育 琉球大学 教育学部 琉球大学 法文学部 帯広畜産大学 畜産学部 同志社大学 文学部 東京未来大学 名桜大学 国際学群 沖縄大学 人文学部
2015年
信州大学 経済学部・琉球大学法文学部・山口大学 国際総合科学部・山梨県立大学 国際政策学部 (私立) 清泉女子大学 文学部・桜美林大学 ビジネスマネージメント学群・関東学院大学 法学部・神奈川大学 法律学部・沖縄国際大学 法律学部
2014年
筑波大学 人文学群 ・ 琉球大学 理学部、農学部 ・ 青山学院 国際政治経済学部 ・ 日本大学 芸術学部 ・ 武蔵大学 人文学部 ・ 日本女子大は家政学部住居学科  ・ 東京工芸大 芸術学部 ・ 沖縄県立芸大 音楽科 ・ 沖縄キリスト教短期大学 英語科 ・ 帝京平成大学 看護科 ・ 亀田医療大学 看護学部 ・ 沖縄県立看護大学
2013年
日本大学 生物資源科学部獣医学科・沖縄国際大学福祉心理学科・ 沖縄キリスト教短期大学保育科特待生 ・ 帝京短期大学栄養科




公式HP こちら



講演会のお知らせ

カテゴリー │スタンス

仲良くしていただいている元薬科中高の森先生の”教育「考」演会”です。



ジュクタン×ジュンク堂書店那覇店×News Picksプレゼンツ 

進学・進級・就職・転職・新生活応援企画

森 弘達先生 教育「考」演会2022春

 in ジュンク堂書店那覇店


 テーマ「最先端の教育~世界、未来を変える学び~」

 ➀「『FUTURE』Vol.3 STEAM* ~今を読み解き、未来を考える~」 *STEAM=Science、Technology、Engineering、Arts、Mathematics

➁「見方が変われば世界は変わる-ニュースで楽しもう- 」 

➂トークセッション「リアルとオンラインのコミュニティづくりによる最先端教育」 


●探究・STEAM教育・大学受験指導の第一人者  森 弘達 先生

 ●日本を代表する経済メディア・ニュースサイト『News Picks』 News Picks Education / 事業責任者、株式会社ユーザベース IT Strategy Division / Leader 蒲原 慎志 氏 

●美らカレッジ・美らSTYLE CLUB運営  新城 香 氏


 2022.3.27  Sun  13:00~14:30 (開場12:30) 入場無料


 登壇者

 森 弘達(もり ひろたつ)先生 
現在、大妻中学高等学校主幹、東京学芸大学大学院教育学研究科(教職大学院)、情報経営イノベーション専門職大学客員教授、東京音楽大学指揮研修講座、国分寺市介護保険運営協議会委員(国分寺市長委嘱)、国際バカロレアディプロマプログラム(IBDP)アドミニストレーター。 昭和薬科大学附属高等学校・中学校教諭・進路指導部主任・生徒指導部主任・高校2・3学年主任、武蔵野大学附属千代田高等学院副校長、国語力研究所研究員、日本私学教育研究所研究員等を歴任。著書に『ハイスコア!共通テスト攻略現代社会』(Z会)、『特化型小論文チャレンジノート志望理由・自己PR編』(第一学習社)、『FUTURE』(SRJ)、『ほんとうの「国語力」が身につく教科書』(Z会)、『わたしたちの「沖縄問題」』(ボーダーインク)など多数。『ジュクタン』において「森弘達先生が読み解く教育改革最前線」を好評連載中。 

蒲原 慎志(かもはら しんじ)氏 
現在、株式会社ニューズピックス News Picks Education / 事業責任者、株式会社ユーザベース IT Strategy Division / Leader。 SIerでエンジニアとしてキャリアを築いた後、コンサルティングファームの戦略事業部に参画し、事業戦略策定、業務改革等に従事。コンサルティングスキル研修を立ち上げ、講師も務める。その後、楽天にてマーケティング企画に従事した後、買収した海外企業の日本事業の立ち上げに従事。スタートアップ企業を経てNews Picksに参画。現在は、ユーザベースも兼務しながら、Education事業を立ち上げ推進中。

新城 香(しんじょう かおり)氏
現在、美らカレッジ株式会社・美らSTYLE CLUB運営。 昭和薬科大学附属高等学校卒業、琉球大学理学部化学科卒業、沖縄県職員(化学職)。「ものづくり」に興味があり、研究員として沖縄県工業技術センターにて泡盛を研究。食品製造業の支援業務を経験した後、保健所や薬務衛生課を経て商工労働部。ものづくり振興課、産業政策課にて、一括交付金の事業や金型産業の企業誘致、新産業支援など担当、2020年3月早期退職し、美らカレッジ株式会社。

※新型コロナウイルスの感染状況によっては、オンライン開催になることもございます。 

お問い合わせ先:ジュクタン運営事務局 ℡098-882-5208


大学受験部についてのお知らせ

カテゴリー │大学受験全般

大学受験部の さらなるパワーアップのため、以前から協力関係のあった名嘉原wittyゼミと当塾大学受験部は2019年1月1日を持ちまして合併いたします。
今後ともよろしくお願い致します。

本格的大学受験予備校W i tt yゼミブログ
https://witty.ti-da.net/



大学受験部ブログ統合のお知らせ

カテゴリー │連絡

大学受験部のブログは

メインブログ

と統合いたします。

今後ともよろしくお願い致します。


夏期講習が終わりました。

カテゴリー │スタンス私をつくったもの数学

夏期講習が終わりました。

 私が以前代ゼミで習った先生のテキストのまえがきを紹介します。


は じ め に

若い頃は皆誰でも、外見のかっこよさにひかれます。

いやいくつになってもそうなのかもしれません。

でもそんなものは、その気になれば誰だってたやすく手に入れることができるのです。

本当のかっこよさ、本当の強さとは何でしょうか?

思い出してください。

私たちがまだ幼い頃のクリスマス・イブの夜のことを。

あの頃はまだ私たちの父親は若く、きっと会社では楽しいことなんか何一つなくて、いやなこと、腹の立つことばかりだったことでしょう。

ところが昼間どんなことがあっても12月24日の夜は、左手にケーキをもって、右手におもちゃをもって、あなたに向かって笑いながら「メリークリスマス」って言ってくれましたよね。あなたにもいつか同じことができますか?

大学合格に一番必要なものはあなた自身の強さです。

現在のあなたの偏差値でも、今通っているもしくは卒業した高校の名前でもありません。

たとえ今日の努力が実を結ばなくとも、また明日立ち向かう決心をしてください。

同じ場所をたたき続ける雨つぶのように生きてください。

あなたのお父さんがずっとそうしてきたように・・・。

それが強いという事ですから。

それが一番パワフルな生き方なのですから。

何万回、何億回とたたき続けることによって、雨つぶはやがて大きな岩をもそして山をもくずします。

人が大きな夢に向かって努力する姿はときとしてとてもこっけいでムダに見えます。

その人の能力がそのレベルに達していなかったらなおさらです。

でもそのみっともない努力こそが唯一不可能を可能にする手段なのです。

この一年のスタートに次の言葉を送ります。私の人生観そのものです。

「運命とは受け入れるべきものではなく、自ら選び創り出すものである」

「人は不可能だと思うとき、やりたくないと決心しているのである」

私たちが日本人であることの最大の幸せは、自分で自分の人生が選べること、未来に起きることをあらかじめ自分で決められることだと思います。

しかしそれは同時にとてもきびしく、他の誰のせいにもできないことでもあるのです。

あなたが今置かれている全ての現実は、皆あなたが過去に選択した結果です。

まずそれを心から認めなさい。

そして努力さえすれば夢が実現出来る環境に感謝しなさい。

すべてはそこから始まります。

荻野暢也

まさに名言である。 


時間を大事に

カテゴリー │スタンス

 夏期講習は塾業界においても正念場である。季節講習で生徒をたくさん入塾させるきっかけにする。

 本土の塾では「夏期講習無料」という呼び水で2学期以降の生徒を確保しようとする塾も多く躍起になっている。本土では少子化で「塾の淘汰」がすでに起きている。以前は名門といわれた塾が縮小したり、吸収合併や解散となっている塾が多い。先日、教え子の就職相談を受けていくつかの以前に勤めていた塾や予備校に連絡を入れた。ほとんどの塾で縮小傾向にあり3フロアーでやっていた塾も1フロアーだけになっている現状がある。また、学年や教材を縦断して教えることができるため経費節約になるということから個別指導塾に変貌する塾もあった。どこも大変である。

 こういった現状は沖縄では、まだはじまっていない。首里でも移転してきた塾や新設塾が数件ある。首里は首里中生を中心にまだまだ「マーケット」があることや親御さんが熱心であるから「良きマーケット」であるようだ。

 しかし、募集業務に躍起になって授業の手を抜くことは絶対に許されない。当塾は社長と私でうまく分業をして募集を含む事務業務をしているため影響は最小限で済まされる。ステ看を貼るのもブログで宣伝するのも時間がかかる。その時間を授業の質を高めたり、生徒さんとの時間に充てるほうが有意義である。それこそ生徒さんのための塾ではないか。

 当塾のブログは貯めて書いている。このような工夫で生徒さんや親御さんとの時間を作ったり、授業の研究をするのである。

 塾の質を上げれば過剰な宣伝も必要ない。過剰な宣伝をすることで虚飾なことをしたくはない。


塾講師は教師の成りそこないなのですか?3

カテゴリー │スタンス私をつくったもの

 学校と塾の違いは教員免許を持っている塾講師なら感じると思う。それは教育実習の14日あるいは1ヶ月で違和感や学校の良さや塾の良さを感じるのだ。

 私は予備校で教えた経験があり、高校での教育実習の時にはすでに独立していた。高校の実習は自らの希望であり、科目も「倫理」という扱いにくい科目だった。

 実習をはじめるときに教頭から「学校の先生は経験や年齢もありますが、みんなが同僚です」ということを話した。また、教員間の仕事への干渉も少ないように思えた。当時の都立高校は組合が強かった。出勤印を台帳に捺印するだけでタイムカードもない状態だった。(今はあるようだが・・・。)

 授業においては担当教員から注意を受けまくった。「1授業で話すことは1つか2つ」というのだ。私は予備校で「速習センター試験倫理・政経」とか「速習センタ試験生物」という科目を持っていた。それゆえに教育実習でも予備校のテンションよ内容でやった。授業が終わりたびに「1授業で・・・」と注意を受けた。

 そこで担当教員と話し合いをして予備校の話をした。ある程度理解はしてもらったが「違い」を教え込まれた。同時にこの「違い」が都立滑落を生んだことも見通せた。当時の都立は大学合格率が悪かった。志願者も多くは私立志望だった。自ら望んで都立に行く生徒さんが少ない時代でもある。

 学校が受験術を教えるところではないという考え年輩教師には多く、予備校を敵視している教師さえいる。そういう教師ほど予備校に興味がないということで理解を示さないし、理解しようともしないのが実情にある。私の指導教員もそうだった。

 学校は授業だけではなく、生徒指導、特別活動、集団行動などを学ぶところである。ゆえに塾とは違った目的である。そこで「学校教師」と「塾講師」を同じ土俵で比較するのはナンセンスだと思う。








塾講師は教師の成りそこないなのですか?2

カテゴリー │私をつくったもの

『塾講師は教師の成りそこないなのですか?』の質問に応えていこうと思う。

 確かに教員を目指していて年齢制限が来た人もいる。以外に多いのは司法試験や医学部再受験で大卒浪人をしている人である。
 私が小学校から通っていた塾にS先生という理数担当の先生がいた。3年位で退職された。忘れたころに仲が良かった先生にきいたら医学部に再入学をしたことを知った。今は兵庫県で精神科医として活躍されている。
 私の仲間のK先生も中大法学部卒で予備校で独立するまで司法試験受験をしていた。こういったことから考えても「教師のなりそこない」というのはない。

 私は長年医学部受験をしながら塾講師をしていて、受験を辞めて精神医療ソーシャルワーカーになったが、やはり教える仕事が好きで医師の子弟や知人の子供を教えていた。神学大学院時代は配属教会の中高生を対象に勉強を教えていた。「教えること」で生徒さんの夢の実現や夢探しに協力したいのだ。

 大学時代はアルバイトであったが、非常に責任感が強かったよ思う。生徒の親にも挨拶をしたり、遅い時間になると生徒さんたちと「集団下校」したこともあった。授業も一切、手は抜かずにいた。年下の講師に注意をして訝しがられたこともあったが塾講師に「誇り」を持っていた。この「誇り」は塾長になった今もかわらない。


塾講師は教師の成りそこないなのですか?1

カテゴリー │スタンス

yahoo質問箱にこんな記事があった。

 塾講師は教師の成りそこないなのですか?

 私の親はよく、
『塾講師は教師の成りそこないだ。』
と言います。確かに学生バイトでもできる職業です。しかし、塾と学校って教育に対する価値観?が違うと思うのです。塾の社員に成りたいという訳ではないのですが、教職の勉強をしていたため、一生懸命『教える』塾講師を馬鹿にしているようで親の考え方が嫌です。
『確かにそういう風に取る人もいるかもしれない。でもさ、学校と塾ってやっぱり違うんだよ?同じ【教える】でも違う価値観ある人もいると思うよ。』
と言ったら

『あんたの考え方が全てじゃない。私の考え方の方が世間の答えだから。』

と言われてしまいました。私の考え方が甘いのですか?同じ【教育者】なのに世間では塾講師と教師はそんなに違いがあるのでしょうか?
親はよく

『あの子は就職決まっても所詮居酒屋…。』など言っています。恥ずかしながらまだ内定が取れていない私は、好きな職業を目指し決まったなら良いと思います。どんな仕事でも妥協ではなく一生懸命やってるなら良いのに…。親に『金食い虫』と言われる私より何倍も良い人生だと思います。私の考えは甘いのですか?

=ここまで=
 1年以上前の投稿である。

 私の姉の友人が塾講師をしていた。大学の工学部で理数担当で街の小さい塾で講師をしていたが、経験を重ねて大手の学習塾に就職をして教科主任になった。

 彼の父親が「塾講師なんて生産性のない仕事はとっととてやめてちゃんとした仕事をしなさい!」と叱責されたそうだ。

 おそらく質問者の親もこの父親も塾の仕事に携わっていないだろうし、人からの伝聞や自分なりの経験をもとに判断しているのだろう。

 「学生バイト」でもできるというのは語弊がある。学生バイトでちゃんとできるのはそうは多くはない。そこでできる学生が将来、予備校講師や塾講師を職とするケースが多い気がする。

 私の高校時代の同級生は今は大手予備校で人気講師をしている。彼も大学時代から頭角を現して「人気講師」だった。

 塾の講師の多くは「教えることが好き」「わかったという顔を見るのが好き」というスタンスの人が多いと思う。また、入試問題、定期テスト対策、指導方法などいろいろな研究をするので「オタク」が多い気がする。ゼニ目的では決してできない仕事でもある。


好きなこと

カテゴリー │スタンス私をつくったもの

 大学時代に携帯電話の営業をしていた。長期休暇のときのように塾の空いた時間は営業のバイトをしていた。
 
 四国でアステルの営業をしていたときだ。パートナーの某商社の担当が急に転勤になった。商社ではよくあることだそうだ。急な転勤で不正ができないようにする目的もあるという話をこの担当から聞いた。学生ながらに見たことのない世界を見た気がした。
 
 大学4年になる春だった。営業でいろいろな会社の人と知り合った。そんな中である上場企業の営業所長が私のことをえらく気に入ってくれた。
 
 昼からウナギを御馳走してくれたり、夜は飲み会。こんなふうだった。東京に戻るころに「おい、大学から推薦状をもらってこい」ということだった。そういうことだったのだ。
 
 結局、2社の上場企業からの就職の話がきたが断った。結局、田舎の社会福祉協議会に内定したが断った。
 
 就職したのは品川の塾だった。
 
 やはり教える仕事が一番だったと今でも思う。
 
 さぁ。明日も頑張ろう!



思い出

カテゴリー │スタンス

妻との結婚式の披露宴を10年近く前にやった。

障がい者自立支援法の動きがあり「授産施設」や「障がい者作業所」は「経営が危うくなる」とか「自分で稼がないといけない」といった話が出ていた。こんな時代が来るなら一石を投じないとダメだと思った。

そこで、結婚披露宴は昔研修をした「授産施設」であるカフェでやろうと考えていた。

私が研修をしたときだった。あの大阪教育大池田小の事件の翌日だった。利用者は意気消沈していた。

「あいつと同じに思われたくない」

「あいつとは違うんだ」

精神障がいの場合はこういった気にする感性や考えてしまったり、思い悩むことは深い。だから病んでしまったといっても過言ではない。

しかし、カフェはいつもどおりの賑わいで赤ちゃん連れの主婦もいた。地域に溶け込んでいる施設は事件なんぞなんでもないのだと思った。

帰りのミーティングである利用者が

「もうだめだ。昨日の事件で何もかも。みんなここに来なくなる」

しばし沈黙。

他の利用者が声をあげた。

「僕達はきびしい試験をこえたり、一生懸命接客訓練もしているんだ。だから大丈夫だ。あいつとは違うんだ。がんばろう!」

と。

このとき、私はいつか結婚したら披露宴はここでやろうと決意したと思う。

披露宴の話をこの施設に持ち込んだ。披露宴の半年前。

私たちと指導員さん、ソーシャルワーカーも試行錯誤の中で動き始めた。

引き出物からお土産まで全部ここの授産施設と作業所でつくったものを利用することにした。

毎週土曜にミーティングをして、料理、ケーキ、余興など披露宴の計画を立てた。

妻が「赤毛のアンのイメージで」といったら、利用者さんは一週間かけて図書館で『赤毛のアン』を熟読してイメージを作る。

料理は豚肉を巻いた「切り株」をイメージしたものが出た。できばえがよく、食べるのが惜しかった。

他にもパンを利用したディッシュなど本当に心がこもった一品であり逸品だった。

塾をはじめて近隣に旧授産施設(今は就労支援事業所)の「そうせい」さんがあった。ダンボールの回収などをお願いすることにした。回収も迅速で丁寧。

感謝である。



田中康夫知事の時代

カテゴリー │私をつくったもの

 私は田中知事の立候補のときに信州にいた。
 
 塾の合宿で使っていたホテルの若旦那から電話が来た。
 
 「田中康夫は深志(松本深志高校)の後輩なんだけど協力できる?」
 
 「いいですよ!喜んで!」
 
 当時は選挙好きで長野で「時流懇話会」と称して、政策研究や候補者の応援や交流会を盛んにやっていた。会の代表にも話をして選挙の協力をすることにした。
 
 長野は保守的であり、土建行政だった。福祉や教育もいろいろな問題があった。
 
 明るく、人柄もよく、何かやってくれそうな感じがする知事候補だった。
 
 見事に当選した。
 
 ある夕方、テレビニュースだった。隣町の福祉施設に訪問した知事に利用者が「パソコンを置けるようにしてほしい」という直訴をした。知事はそれを約束した。施設でソーシャルワーカーをしていた私はこのニュースを自分の施設の利用者と一緒に「いいなぁ。うちにも知事がこないかね」といっていた。
 
 数日後、施設長に呼ばれた。
 
「田中知事の肝いりで施設にパソコンを導入することとなった。施設内でインターネットができるようにすることも盛り込まれている。どうにかできない?」
 
 私は、「大丈夫です」といい、エイデン(今は名前が変わっていると思う)にいって新しいパソコンを購入するために見積もりを取った。同時に施設内のLAN構築の企画をもって業者を回った。いい業者がみつかった。
 
 パソコンもLANもできた。CATV回線でネットもできた。パソコンはフルセットだ。HTMLで施設のホームページも作成した。
 
 利用者さんは気軽に情報をインターネットから仕入れた。食事のこと、健康の情報、旅行にいく計画などなど本当によかった。
 
 田中知事のすごいところは施設の利用者の直訴をその施設だけではなく、県内の全施設で実行したことだ。これで長野県の福祉施設のIT化は当時では最先端になったのは間違いない。精神障碍者社会復帰施設のサイトも勤務していた施設の他に全国でも1つしかなかった。
 
 田中知事の施策はこれだけではない。教育にメスを入れたり、県の財政赤字を大きく減らしたり、福祉現場の声を聴いた上で福祉施策をしたりと本当にすごかった。今でもあのころを思うと胸が熱くなる。
 
 田中知事の「フレンド申請」をしたら即座に返ってきた。覚えていてくれたようだ。本当にうれしかった。
 
田中知事がんばってください!



人間性

カテゴリー │スタンス私をつくったもの

高校1年のとき学歴にこだわりまくっていた。

夏は信州の別荘で過ごした。同じ市内に母の実家があって叔父が同居していた。そこには従兄弟がいた。

従兄弟は4歳下。いろいろと学歴に関して興味を持つ時期だった。

 叔父がよく

「おめぇ勉強しろ!は中卒でいいのか!たかしみたいに勉強三昧もいけねぇけどな」

とかいっていた。

自由研究を手伝った。当時導入されて間もない参議院の比例代表制の「ドント方式」を実際に計算してみることになった。

そのときに当選議員の学歴が出ていた。

「にいちゃん!この『中学』って中卒けぇ?」

「そうだよ。だから学歴は大事なんだよ」

こんなことをいっていた。

そんなのをみてよく遊びに来る叔父の親友Yおじさんがいった。

「たかし、人間は学歴じゃねぇ、人間性だ」

Yおじさんは「中卒」だった。そんなことに耳を傾けるわけがない。

Yおじさんが非番のときに

「おい!松本いくぞ!」

といった。少し離れた「都会」である松本に私と従兄弟を連れて行ってくれるということだった。すぐに準備をして
松本に向かった。

途中の車内でYおじさんは歩いているフィリピン人に声をかけたり、私と従兄弟が興味を持つ話をたくさんしてくれた。車内は爆笑だった。車内ではケイ・ウンスクの歌をかけていた。

Yおじさんはどこかのホテルの甚平を着ていた。「都会」の松本ではどうみても浮いてしまう。おまけに平日だ。

そんなときに松本パルコあたりだった。三つ揃を来たサラリーマンが

「おい!S(苗字)さんじゃねぇか?何で松本に来るにいってくれなかった!」

と寄ってきた。

「今日は『子守り』なもんで」

しばらく話し込んでいた。私はYさんは何者かわからなかった。普通なら甚平の怪しい人であれば無視するのが当たり前だ。

パルコは井上といった松本の有名店を回った。

Yおじさんは紳士服、婦人服や子供服売り場にいって「これでもない」「あれもだめ」と服を選び出した。

どうやら同居の家族へのものらしい。買い方からいって頼まれたものではないようだった。

子供服やら婦人服やらいろいろ買っていた。

帰りの車で家族のことを話してくれた。

貧しい家の長男に生まれたYおじさんは中学を出て地元の会社に就職をした。免許を取って運転手になり、大型免許を取得してトラック運転手になった。

そして、弟や妹の学費を出した。弟が病気になり、その子どもの生活も援助していることがわかった。

弟も妹も旧帝大を卒業している。

家族のために進学を断念しただけではなく、家族の学費や生活の面倒をみていたのだ。

あの買い物も家族のためであった。

人徳があり、秀でた社交性があることからいろいろな知り合いがいた。悪いことははっきり悪いという。

あのサラリーマンが声をかけた理由もわかった。Yおじさんの人徳からだ。

私はYさんに

「仕事、何をしてる?」

といったら財布の中からバッジを出してきた。

市会議員だ。

つまり、この人徳で議員になったのだろう。いや、市政を変えたいためになったそうだ。

「市役所の議員もバカッコゾウが多いもんだね」(「バカッコゾウ」:スラング:信州弁でいう”うーまく”と”ふらー”の間」)

まったく鼻にかけないので議員だとは感じなかった。何も飾らないありのままのおっさんである。

学歴は事情があって得られない人もたくさんいる。

学歴がなくてもいい人はいる。

「たかし、人間は学歴じゃねぇ、人間性だ」

Yおじさんの言葉がわかった。

こんなことを高校1年のときに悟った。

学歴は武器の1つであって全てではない。実力があれば学歴なんていらない。

しかし、沖縄では本土から不条理を突きつけられないために向上が必要だ。

学歴はフレームであり、飾りである。それが沖縄には必要なのだ。

また、

大学名よりも大学は内容である。

私が大学で学んで2専攻、大学院で学んだ1専攻は教授や内容に自信がある。いきたくていった大学。すべり止
めみたいな大学でもいきたくてしかたなかった。だからいった。友人も真面目だった。学んで、卒業してよかった。
先日の校友会で再確認した。

大学の先輩でもある、おもろまちの大興不動産の池城先輩のエッセーを読んだ。新聞配達をしつつ苦学して大学を出た。東京で修行を積んで沖縄の不動産業の向上のために国際通りの3間の小さな店からはじめた。そして、今は県内屈指の不動産業だ。こういう先輩を知ると私は燃える。着実に沖縄を変えているからだ。

こんなことを書くと「塾長は矛盾している」と、また、いわれそうだ。

私が小中学生に「東大」を勧める理由は向上心をもって欲しいからだ。大きな目標を持てば妥協しようが挫折しようがそれなりで止まるからである。また、何も勉強することが決まっていないのなら何でも学部学科のある東大がいいからである。

沖縄の学力向上は一筋縄ではいかない。だからこそやりがいがあるのだ。強い沖縄に変えていきたい。



営業時代

カテゴリー │スタンス

社長と塾の前に幟を増やす話をしていた。
 幟を横に支えるパーツがないという話になった。
 
 このパーツは竿の中に入っている。
 
 社長から「なんで知っている?」ということになった。
イメージ 1
 1996年、私が大学4年になる春だった。日本橋で教室を出していたときに共同事務所だった携帯代理店があった。私はここの営業主任も兼ねていた。中国地方でデジタルツーカーの携帯がサービス開始になるという話があった。大手の商社との仕事で代理店の命運をかけた。中国地方(岡山)に入る前に練習をしてみようということとなって、四国でPHSの営業をしようとなった。当時のPHSはエリアが狭く、料金が安価だけしか利点がなかった。試しに高松でアステルの営業をした。代理店展開である。
 
 ターゲットは若い人。若い人が集まる店に徹底的に営業をした。3日でそれなりにPHSの申し込みがあった。5日目に営業は成功するとみていた。そこで四国に留まるか、岡山にわたるかとなった。食事の時間にこの課題が出された。後で風呂で意見を聞くということになった。
 
 大浴場で営業部隊の意見は一致。四国にとどまることとなった。今の勢いでPHSが伸びるとみんなが読んだのだ。結局、岡山は中止になり商社も四国に留まることを了解した。
 
 中国地方での携帯の契約解禁日の前日に岡山から連絡が入った。すでに契約を始めている代理店がある。このフライングで中国地方にわたっても勝ち目はないことを悟った。四国に留まって正解だった。
 
 代理店が決まるとアステルの販促グッツを持っていく。そこに幟もあった。組み立てて桃太郎のようにして持っていくのだ。そのときに幟の仕組みを覚えたのだ。
 
 結局、アステルのPHSは4000本以上の契約になった。商社もびっくりだった。
 
 私にはこの商社の駐在員の就職の話と商社と同じ系列の上場企業から大学卒業後の就職話まできた。
 
 結局、話には乗らなかった。
 
 この営業は、いろいろと勉強になった。



かつて介護会社があった

カテゴリー │スタンス


  • 訪問入浴車が職場の近くに止まっていた。
     
     当時の長野ブロックのコムスンには訪問入浴のエキスパートが何名かいた。直属の上司Mさんも訪問入浴出身だった。Mさんが引っ張ってきたSさんもそうだった。Sさんは物静かでいつも控えめだった。
     
     上司のMさんは言った。
     
     「いいか、訪問入浴は『在宅介護の華』だ。入浴は健康なときにはいつでもしていることだが、介護状態になると桶に入って入浴できなくなる。『尊厳と自立』を守るためにも必要なんだ」
     
     こんなことを叩き込まれた。
     
     はじめての訪問入浴の依頼が来た時にクライアントさんに承諾を得て訪問入浴の研修となった。センター長がコムスン号で隊列を組むようにしてお宅に向かった。
     
     上司は「ハゲ頭から湯気を出して訪問入浴をした」といっていた。その表現のように風呂の湯気とセンター長の熱気があった。
     
     何度か研修があった。いつも控えめはMさんは入浴車に乗ると人が変わったように積極的になり、陽気になっていた。「風呂おやじ」と周辺といわれるくらいだった。
     
     訪問入浴とは奥深い。そして本当にクライアントさんに喜ばれるサービスだと思った。Mさんの言うとおり「華」だとわかった。
     神学大学院で牧師の修行をしているときコールセンターでパートをしていた。当時のコムスンのコールセンターはケアセンターへの連絡、クレーム、介護相談、人事(就業希望者のファーストコンタクト)がメインである。
     「訪問入浴オペレーター」つまり、運転手、設置、入浴介助を仕事とする職種である。資格要件に普通自動車免許だけでよい。介護保険法上の資格要件もない。
     
     よく「資格がないので私でもできますか?」とか「オペレーターって何ですか?」という相談があった。私は懇切丁寧にオペレーターの説明をしていた。
     
     ある時だった。コールセンターのアルバイトから社員に登用されたZがいた。異業種からコールセンターのバイトに転じた20代後半だった。もちろんバイト上がりなので現場を知らない。当時のコールセンターには主婦、劇団員、自営業者、評論家など多彩な人材だった。現場のヘルパーを兼任している人が1名、ケアマネージャーの受験生が1名いる以外は異業種の人間である。このZも同様である。
     
     神学大学院の勉強も一段落ついたのと結婚しようと思う相手が現れ、2病院から精神保健福祉士の話があったのでそろそろ潮時だと思った。そんなときに「オペレーター希望者」の電話を取った。私がいつものように説明をしているとZがモニター(電話の内容を聴くこと)していた。Zは、応対中である私の後ろに立って私の名前を叫んだ。「説明をやめろ」というのだ。私はそのまま続けた。
     
     電話が終わってZは阿修羅か般若のような顔をしていた。個室で散々注意された。私は「これは大切なことです。現場の説明をして納得してもらうことがよい人材を得ることだと思います。私はコムスンに愛着があります。訪問入浴の現場の人間が命をかけていることも知っている」と反論した。コールセンターの責任者がきて私を宥めた。責任者も私と同じように「デンタルコムスンに思いがある」と共感してくれた。
     
     病院の引きが強かったのでその直後にパートはやめた。しかし、病院のソーシャルワーカーになってからもコムスンとの連携を続けた。それは現場が頑張っていることをよく知っているからだ。「コムスンからもらっているのか?」「回し者」といわれても「信頼できる介護会社に大切な患者さんを任せて何が悪い」と反論した。事業部の方もセンターのスタッフも本当に協力的だった。
     
     コムスンが国から圧力で御取壊しなってからも元コムスンの事業所のお願いした。今でもこの方々とはメールや賀状をやりとりをしている。
     
     このZは国からの圧力が強くなったらすぐすぐに退職したことを当時のコールセンターの同僚から聞いた。所詮、そんなものかと思った。会社が撃沈されても沈没するまで乗っているのがいいと思う。それが責任でもある。
     
     一度目にコムスンが縮小したときは縮小が発表されて給料3か月分の退職金をもらって早々に立ち去った社員がたくさんいたが、全員がいつも会社の悪口をいっていた連中だった。私は退職日を指定日から逸らして退職金をもらわなかった。これは会社にそれ以上の打撃を与えずに再出発をして欲しかったからだ。
     
     今、自分で経営をして採用した講師をみて、どれだけ本気で取り組んでいるかがわかるのはこういった経験があったからだと思う。
     
     コムスンは私にとっていろいろ学びとなった。



    吉野敬介先生のことば

    カテゴリー │スタンス

    今、頑張れないヤツは
    一生頑張れない。



    根拠なき自信家でいい。
    "自信"なんて、
    もともと不確実で不安定なものなんだから、
    自分が「ある」と思えばあるし、
    「ない」と思えばない。

    それでいいんだ。
    "自信は持ったモン勝ち"なんだよ。



    何事も「必ず成功する」
    と思い込んで挑戦しろ。

    成功すると言い切ったヤツが、
    成功する。



    自分を変えたい、
    今の状況から抜け出したいと思うなら、
    今の自分を頑張ることから始めろ。



    "今"の積み重ねが、人生だろ?

    今、向き合っているその仕事を
    頑張れないヤツが、
    どうしてこれからの一生を頑張れるんだ。
    頑張れないじゃないか。

    まず、五日間、頑張ってみろよ。
    五日間頑張れば一か月頑張れる。

    一か月頑張れば三か月だって頑張れる。
    だから、今頑張れば、
    一生頑張ることができるんだ。



    今の二十代くらいのヤツらは、
    仕事にしても勉強にしても、
    「わからない」「無理だ」「どうせオレなんか」
    なんていう言葉を、簡単に口にしすぎる。

    たいして努力もしないうちに、
    自分で自分の限界を
    決めてしまっているヤツが多すぎるよ。

    おまえは、"バカだから"できないんじゃない。
    "やらないから"できないんだ。



    「いつかやろう、明日から頑張ろう」
    なんて思っていると、

    あっという間に勢いが落ちて
    チャンスを逃すぞ。

    のんびりしているヒマはない。



    費やした努力と時間は、
    黙っていても結果に
    あらわれるものなんだ。

    努力と時間は
    おまえを裏切らない。



    人は誰でも、ハンデやコンプレックスを
    抱えて生きている。

    それを前提にして、
    どう生きるかが大事なんだ。

    不定的に考えたり、自分に言い訳をしたところで、
    そこから何か生まれるのか?前に進めるのか?
    現実を直視するんだ。



    ビジネスの世界では、
    「忙しいからできません」
    なんて言い訳は通用しない。

    「時間がありません」は、
    「やる気がありません」と同じことなんだぞ。



    やりたくなくても
    やらなければならないことを
    一生懸命にやる。

    これを努力という。



    特別大きなことをやり遂げるよりも、
    当たり前のことを
    当たり前に続けることのほうが難しい。

    たとえば、「朝七時に起きて仕事をする」
    と決めたら、どんなことがあっても起きる。

    決めたことをきちんとできるヤツこそ、
    成功できるヤツなんだ。

    ほとんどの人は
    「昨日遅かったから、
    今日だけ八時まで寝よう」とか
    「カゼ気味だから、今日だけもう少し寝ていよう」
    なんて、すぐ自分に言い訳をする。

    "今日だけ"が、一日ですむわけがない。
    一度例外を許したら、毎日が例外になるだけだ。

    簡単に例外を作るから、
    目標を達成できない。

    最終的に強いのは、誰にもできない大きなことを
    一発ドカンとやるヤツじゃない。

    少しの努力を毎日続けられるヤツ、
    昨日よりも少しだけ
    スピーディに正確にやってみよう
    という気持ちを毎日持ち続けられるヤツなんだ。



    みんながやってることをやるなら、
    あきれるくらい徹底的にやれ。

    人と同じことを
    人と同じ程度にやるだけじゃ、
    おまえはいつまでも
    大勢の中に埋もれたままだぞ。



    人生の決断と選択は、
    おまえの意志で行え。

    人まかせの人生は、
    成功の喜びが十分の一に、
    失敗の後悔が十倍になる。



    突っ張るときは徹底的に突っ張れ。
    遊ぶときは思い切り遊べ。

    でも、誰でも、
    人生の頑張りどきっていうものがある。

    そのときは、
    死ぬほど頑張れよ。



    語学

    カテゴリー │英語スタンス

     語学を維持することは習得する以上に難しい。
     
     早期教育で語学をしても、長い間やらなかったら忘れる。結果、無駄になる。
     
     私は大学時代に中国語、タガログ語を学んだがほとんどが飛んでしまった。特にタガログ語は全滅である。
     
     これは使わないからである。
     
     30を過ぎて習得した韓国語だけはどうにか減退しながらも維持している。
     
     送迎帰りに韓国曲のCDをかけたり、韓国の放送をネットから取ったりと努力をしているせいである。
     
     先日、中1の生徒さんから韓国語の学習相談があった。以前、韓国語教室に企画をして倒れたときのテキストがたくさんあるので進呈させてもらった。役に立てばいいと思う。英語が堪能なのであと1ヶ国語を取得する余裕もセンスもあるだろう。
     
     私の知人の朝鮮族(チャイナ系コリアン)の方は英語、中国語、日本語が操れる。朝鮮族にはこの手のマルチ・リンガルはたくさんいた。友人の韓国人宣教師は7ヶ国語が自由自在である。彼の場合は神様からどこの国に遣わされてもいいという考えである。
     
     動機はどうあれ外国語取得は多ければ多いほうがいい。



    学歴

    カテゴリー │スタンス

    高校1年のとき学歴にこだわりまくっていた。

    夏は信州の別荘で過ごした。同じ市内に母の実家があって叔父が同居していた。そこには従兄弟がいた。

    従兄弟は4歳下。いろいろと学歴に関して興味を持つ時期だった。

     叔父がよく

    「おめぇ勉強しろ!は中卒でいいのか!たかしみたいに勉強三昧もいけねぇけどな」

    とかいっていた。

    自由研究を手伝った。当時導入されて間もない参議院の比例代表制の「ドント方式」を実際に計算してみることになった。

    そのときに当選議員の学歴が出ていた。

    「にいちゃん!この『中学』って中卒けぇ?」

    「そうだよ。だから学歴は大事なんだよ」

    こんなことをいっていた。

    そんなのをみてよく遊びに来る叔父の親友Yおじさんがいった。

    「たかし、人間は学歴じゃねぇ、人間性だ」

    Yおじさんは「中卒」だった。そんなことに耳を傾けるわけがない。

    Yおじさんが非番のときに

    「おい!松本いくぞ!」

    といった。少し離れた「都会」である松本に私と従兄弟を連れて行ってくれるということだった。すぐに準備をして
    松本に向かった。

    途中の車内でYおじさんは歩いているフィリピン人に声をかけたり、私と従兄弟が興味を持つ話をたくさんしてくれた。車内は爆笑だった。車内ではケイ・ウンスクの歌をかけていた。

    Yおじさんはどこかのホテルの甚平を着ていた。「都会」の松本ではどうみても浮いてしまう。おまけに平日だ。

    そんなときに松本パルコあたりだった。三つ揃を来たサラリーマンが

    「おい!S(苗字)さんじゃねぇか?何で松本に来るにいってくれなかった!」

    と寄ってきた。

    「今日は『お守り』なもんで」

    しばらく話し込んでいた。私はYさんは何者かわからなかった。普通なら甚平の怪しい人であれば無視するのが当たり前だ。

    パルコは井上といった松本の有名店を回った。

    Yおじさんは紳士服、婦人服や子供服売り場にいって「これでもない」「あれもだめ」と服を選び出した。

    どうやら同居の家族へのものらしい。買い方からいって頼まれたものではないようだった。

    子供服やら婦人服やらいろいろ買っていた。

    帰りの車で家族のことを話してくれた。

    貧しい家の長男に生まれたYおじさんは中学を出て地元の会社に就職をした。免許を取って運転手になり、大型免許を取得してトラック運転手になった。

    そして、弟や妹の学費を出した。弟が病気になり、その子どもの生活も援助していることがわかった。

    弟も妹も旧帝大を卒業している。

    家族のために進学を断念しただけではなく、家族の学費や生活の面倒をみていたのだ。

    あの買い物も家族のためであった。

    人徳があり、秀でた社交性があることからいろいろな知り合いがいた。悪いことははっきり悪いという。

    あのサラリーマンが声をかけた理由もわかった。Yおじさんの人徳からだ。

    私はYさんに

    「仕事、何をしてる?」

    といったら財布の中からバッジを出してきた。

    市会議員だ。

    つまり、この人徳で議員になったのだろう。いや、市政を変えたいためになったそうだ。

    「市役所の議員もバカッコゾウが多いもんだね」(「バカッコゾウ」:スラング:信州弁でいう”うーまく”と”ふらー”の間」)

    まったく鼻にかけないので議員だとは感じなかった。何も飾らないありのままのおっさんである。

    学歴は事情があって得られない人もたくさんいる。

    学歴がなくてもいい人はいる。

    「たかし、人間は学歴じゃねぇ、人間性だ」

    Yおじさんの言葉がわかった。

    こんなことを高校1年のときに悟った。

    学歴は武器の1つであって全てではない。実力があれば学歴なんていらない。

    しかし、沖縄では本土から不条理を突きつけられないために向上が必要だ。

    学歴はフレームであり、飾りである。それが沖縄には必要なのだ。

    また、

    大学名よりも大学は内容である。

    私が大学で学んで2専攻、大学院で学んだ1専攻は教授や内容に自信がある。いきたくていった大学。すべり止
    めみたいな大学でもいきたくてしかたなかった。だからいった。友人も真面目だった。学んで、卒業してよかった。
    先日の校友会で再確認した。

    大学の先輩でもある、おもろまちの大興不動産の池城先輩のエッセーを読んだ。新聞配達をしつつ苦学して大学を出た。東京で修行を積んで沖縄の不動産業の向上のために国際通りの3間の小さな店からはじめた。そして、今は県内屈指の不動産業だ。こういう先輩を知ると私は燃える。着実に沖縄を変えているからだ。

    こんなことを書くと「塾長は矛盾している」と、また、いわれそうだ。

    私が小中学生に「東大」を勧める理由は向上心をもって欲しいからだ。大きな目標を持てば妥協しようが挫折しようがそれなりで止まるからである。また、何も勉強することが決まっていないのなら何でも学部学科のある東大がいいからである。

    沖縄の学力向上は一筋縄ではいかない。だからこそやりがいがあるのだ。強い沖縄に変えていきたい。



    高すぎる山なんてない!

    カテゴリー │スタンス

    Ain't no mountain

    high enough!


    高すぎる山なんてない!


    家庭教師

    カテゴリー │スタンス

    私は20歳のときに最初の中学生の家庭教師をした。

    母のピアノのお弟子さんで私立中学に通っている中学生。内容は夏休みの課題のお手伝いだった。

    姉も中学受験のときに教えたこともある。姉の時間が取れないのでお試しみたいになったようだ。姉は今でも東京で家庭教師をしているが、盛況で大人気である。

    中2の数学だった。幾何が苦手なようだった。代ゼミ2浪目で定松先生の数学に出会った後だったので「数学の発想は・・・」と定松先生のマネをして教えていた。1週間くらい教えただろうか。

    最終日に「お礼」といって2倍カップの即席ラーメンを6つもらった。母が「お金は要らない」といったそうだ。

    夏休み明けのテストで生徒さんはクラス最高点を取ったという連絡を受けた。

    9月からは後輩に勉強を教えるようになった。今度は英語と現代文。すでに太庸吉先生や原秀行先生に習い英語の受験勉強はわきまえていた。現代文は今でも活かしている有坂先生から習った方法を教えた。9月からはじめて短大志望であったが、1期試験で第一志望を逃したことと、成績が伸長していたため2期入試で当時大人気だった東洋英和女子大学に合格してくれた。

    この後からお金をもらって家庭教師や塾講師をするようになった。

    「家庭教師は何を質問されてもすぐに答えられなくてはいけない」

    これは、私が中学時代に厄介になった東大文1のN先生や高校時代に厄介になった東大理3のN先生が家庭教師を決めるときに母に話していたことばである。

    私はこの言葉をモットーに家庭教師をした。「わからないから保留」とか「来週まで待って」といって1週間の間に調べまわって翌週に生徒さんにこたえることは絶対にしなかった。即答、即解である。

    家庭教師や塾のように資料があるわけでもない。かばん1つで生徒さんの家に行くのだ。試験前になれば科目の枠を越える必要があるため全科目を試されることもある。ゆえに家庭教師は能力が高くないとできない。今でも首都圏に行くとハイレベル大学の学生の特権のように家庭教師がいわれるのはこのせいもあるだろう。私の大学時代に同級生で家庭教師をしている同級生は皆無だった。中堅私大であるため全科目ができるという学生が少なかったせいである。同級生には英語だけ、現代文だけ、日本史だけのように1~2科目しかできないためである。私立文系であるため数学や理科ができない学生が大半であった。

    私は、今のように携帯端末で調べられる時代から即答・即解である。いままで生徒さんに対して「保留」をしたことはない。

    これは当塾のスタンスにもなっている。

    そこで講師にも「即答」を求める。生徒さんはそれでなくては満足してくれないのである。幸いにもこたえられる先生ばかりであるから当塾は講師に恵まれている。というか、以前は大学生講師が中心だったため「保留」をしていた講師もいた。特にここ数年は「ゆとり世代」であるため習った内容やレベルが違う。そこで専門性の高い講師や社会人講師だけを講師とするようになった。



    本はそのときに買う

    カテゴリー │スタンス

    私は高校に入るまで読書という読書をした記憶がない。高校時代は哲学書、倫理学、キリスト教学、マルクスレーニン主義、原発問題、イデオロギー関連など好きなテーマだけを読んだ。地元代々木に美和書店という社会科学書専門店があり学校帰りによく寄って立ち読みをして小遣いが入るたびに買った。

    国文学科時代に児童文学者でもある教授から「本は思い立ったときに買わないとなくなる」という話があった。

    社会福祉を学ぶようになり、大学生協で買えない本を探すために大学の帰りによく池袋のリブロ(大きな本屋)に良く寄った。立ち読みをさんざんして1~2冊の本を買う。あるときに資金がなく、来週、給料が入ってから買おうと思ってそこを後にした。一週間後に再度リブロへいくとその本がない。題名もうる覚えだ。取り寄せるにも取り寄せられない。結局、買えずじまいに終わった。

    最近、昔買おうと思った本をアマゾンで探した。なんと新しい本が出ていない。中古本を見つけたが、正価の10倍。他のネットショップも全て在庫切れ。やっと1軒だけみつけて購入した。

    ネット時代になっても「本は思い立ったときに買わないとなくなる」という教授の教えは通じる。


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